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まめとみつ : コピーライター 村上美香&「柴犬まめ と みつ」のコトバ・グラフティ。

雑誌「大阪人」芸術コラム

絵師の自由〜東 學個展「黒い図鑑」

(by サントリーミュージアム[天保山]学芸員 植木啓子氏)

  その昔、この国にはなかった芸術家、アーティストという言葉は、ある種の活動をする人々を自由にした。筆で描き、刀で刻むことだけがその手段ではなく、アーティストには無限の素材、媒体の使用が許され、写し取ることからも、理想を追求することからも解放された。自己の内面を吐露することは決して恥じるべきことではなく、独創性、個性の名のもとに、自らを表現することが認められたのである。それで、彼らは幸せになったのか。

  いや同時に、アーティストという言葉は、彼らを甘やかし、結果として不自由にした。ひとつの道具に、素材に、表現手段に習熟せずとも、それが表現者の質を左右するものとはされなくなり、新奇と独創のはき違えが招く混乱のなかで、あらゆる表現が賞味期限付きとなった今日。芸も技も、職人的な目から見れば未熟なまま、毎週新発売されるコンビニ弁当さながら、違いと新しさを売りとし、飽きられることを恐れながらの手探りが延々と続く。

  そんなアーティストたちの不自由さの一方で、現代の主流とされる「現代美術」の世界にはまるでそぐわない肩書を飄々と背負う東學。草履をひっかけ千日前を行く、平成の浮世絵師である。浮世絵師の肩書は洒落でもパロディでもない。なぜなら、東の描く墨絵は浮世絵なるものを、東という人は浮世絵師なるものを、ごく自然に匂わせるからである。

  言うまでもなく、浮世絵は江戸時代に成立した町人、庶民のための風俗画。浮世、つまり現実の社会や人々の生活、心情を描き出した絵である。しかし、浮世絵は現実をそのまま描き写したものではない。それは日本絵画がそれまで追求してきた装飾性の流れをくみ、大胆な構図、繊細な線、多彩な色の調和によって、平面上にひとつの別世界を生み出すものである。とはいえモチーフである現実の事象を異なる媒介とし、絵師自身を表現することがその目的ではない。自らの心を絵に捧げ、自らが描くものが描かれる対象そのものになることを目指した北斎という例は極端かもしれないが、いずれにせよ絵師の視線は、それが実際に存在するものであろうがなかろうが、描く対象の上に注がれ、自らの心と手はそれを描くために鍛えられるのである。

  東は無彩の墨によって女性の身体の「女」を描いてきた。対象に執着し、絵技がはっきりと現れる線と構図によって、その魅力を描いてきた。そして今回、昆虫や鳥といった生物に目と手を転じる。驚くことに東は、これまで以上に絵技の問題から逃げも隠れもできない状況を自らつくりだしたのである。対象が多様化すればするほど、技術が作品に現れる。それをまず乗り越えて、東は東の絵を描かなければならないのである。東は絵技に磨きをかけた。そして以前より自由に描き、自由になった。さらに描けば、さらに鍛えられ、描く対象は広がり、深まり、さらに自由になるに違いないと、彼の八咫烏(やたがらす)も蛙も予感させる。

  私たちの国は、森羅万象を描き尽くしたいと願った北斎の国である。すべてを自由に描くための技の必要を、絵師、東は知っている。そして、それがどれだけ遠い道の先にあるのかも知っているのだろう。だから、彼はひたすら描き続けるのかもしれない。